2011/04/28

切り抜きの効用

 友へのメールより
「 もしかしたらもっと生きられるという希望が出て来た今の方が、死ぬしかないと思っていた前よりも、苦しんでいますね。 」
これは、山谷で「きぼうのいえ」というホスピスを運営している山本美恵さんが、これから死に行く人のcareをしているとき、その人の心が解けてきたときのコメントです。
このメールの書き始めに、たまたま飛び込んできたメッセージです。
 
このメッセージも山本美恵さんも、私のあたまの中には何も残っていなかったのですが、私のメモ( Evernote)に残っていました。
昨年末(12/13)、NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」で放映されていた時の感動がメモになっていたのです。
 
希望があるから苦しくなるというのは理解できます。
反対に、いや、同じかもしれませんが、『「無」、悟れば生きる力』というのもあります。
「無の心」を自覚すれば、肩の力が抜け気持ちが軽くなって、生きるエネルギーがわいてくる。でもね、ぬるま湯につかっていたら悟れない。一度どん底に落ちたらいい。欲も煩悩も迷いも薄らぎ、必死ではい上がるしかない。じたばたせず、うろたえずに世の中をじっと見つめて好機を待つ。
 
出典  有馬頼底  臨済宗相国寺派管長  2008/11/12 朝日新聞夕刊より
 
Evernoteで、はじめに、探したかったのは、先週土曜日(4/23)の朝日新聞、天声人語で紹介された島田陽子さん(詩人)の次の詩でした。
滝は滝になりたくてなったのではない
落ちなければならないことなど
崖っぷちに来るまで知らなかったのだ
思いとどまることも
引き返すことも許されなかった  (この2行は別のlinkより)
しかし、まっさかさまに
落ちて 落ちて 落ちて
たたきつけられた奈落に
思いがけない平安が待っていた
新しい旅も用意されていた
岩を縫って川は再び走りはじめる
 島田陽さんは、大阪万博のテーマ曲「世界の国からこんにちは」の作詞者で、6年前にがんの手術をし、4/18に81歳でなくなったそうです。
 
「・・・導きください」とあったので、考えました。考えが及ばないので、半年から1年分たまった切り抜き途中の新聞の整理を開始。3日間かかっていますが、いまだに終わりません。
 
その中で、切り抜きの整理、つまり、記事を通して自分の頭や心の中をのぞき思いをめぐらすこと、の中で感じたことは、共感、感動のおよぼすポジティブな作用です。
それは、アルコールが入ると増幅され、心地よすぎる希望にも拡大します。冷めたら、今の現実に戻りますが、思い起した感動の余韻は残ります。
 
新聞は、新しいから、この先どうなるかわからないから面白いのであって、当たり前のことですが、旧聞では、初めて読んだときの驚きや疑問、興奮が萎えてしまっていることも多い、ということも改めて感じました。
 
過去のすべての感動を呼び起こし、楽しいことも、苦しいことも、つまらないことも、なんでもありの未来に、いっぱい素晴らしい感動があることを期待して、感動の土台の上の今を、感動に満ちたものにしましょう。
何もなくても、今があることが感動なのです。

2011/04/21

手を合わせる

>アミダと向き合う時、あるいは他の仏さまでもいいが、さて皆さん何を念じますか。
 
手を合わせて念ずると言えば、食事の前の「いただきます」ですね。でもそれは、阿弥陀さまに向かってではないようです。
小学校の食堂の前の壁の張り紙に次のようなことが書いてあって、感心したことを思い出します。
「いただきます」と言って感謝する対象は、食事をテーブルに運んでくれた給食係のお友達、食事作ってくれた方々、食材を学校まで運んでくれた人、野菜や牛乳を作ってくれる農家の人たち、そして自分の命を食べ物としてささげてくれた生き物たち
お寺で手を合わせた記憶となると4年ほど前の中学同窓会の前の物故者合同弔い会、「安らかに...」と念じたかも知れません。
実家の仏壇の前で手を合わせたのは1年半ほど前の報恩講。お寺からのはがきが届いていたところへ、檀家の世話役からの電話が入り、お経をあげてもらうことにしました。私も母も、滅多に仏壇を開かないので、仏壇の扉はスムーズにあけるの難しく、開ける度に少しずついたみます。
 
このようにお寺や仏壇の前は少ないのですが、神社の前で手を合わせることは、時々あります。
4月6日、東京王子の稲荷神社で手を合せました。会社の退職仲間(元同僚・先輩)で花見に出かけた際のことです。
鶯谷の子規庵を訪れた後、王子まで足を延ばし、飛鳥山公園で桜を愛で、時間つぶしの渋沢栄一史料館でこの人を再(?)認識し、王子神社を経て王子稲荷神社へ。
敷地も広くて立派な王子神社では誰も手を合せなかったのが、狭い崖っぷちにある稲荷神社では、その存在感に惹かれてか、5人中3人がお参りしました。
帰り道、近くの饅頭屋さんによると、王子稲荷神社はパワースポットとして有名ということで、なるほどという感じがしました。
 
パワーが強いところというものは、これまでにそこを訪れた人のいろいろなエネルギーが蓄積されていて、その総和が少しずつ放出され、訪れる人に迫ってくるのではないでしょうか。
 
高校野球で一生懸命にプレーする球児からパワーをもらう、多く人の視線にさらされて美人になる、屈託のない小学生の笑顔から元気をもらう、勇気をもらう、力をもらう....こうしたプラスのパワーはもとより、
自分にないもの、欠けているもの、不足しているもの、持っているはずだが失念しているもの、そういうものを与えてくれる、あるいは、それでも大丈夫だよと励ましてくれる存在に対して、それを祈るパワーも、大きな力だと思います。
 
ところで私は、何を念じたのでしょうか? 忘れました。 家族の無病息災でしたかね...お賽銭が5円だったことは覚えています。

2011/04/06

命を命がけで予測しないゲンパツはゲンバツに処すべし

本日、富山から千葉に移動しました。千葉には1週間いる予定です。

道中の景色は、大惨事など何事も感じさせない、春に向かっての 穏やかな景色でした。

富山湾を抜けて新潟県に入ると、電車は海岸線沿いを走ります。
左手に青い海を垣間見ながら、親不知、青海を経て糸魚川へ。
もっとゆっくり海を見たいと思っても、トンネルや、高速道路が視界を遮ります。昔は、もっと海岸線沿いを走り、ゆっくりとしていて、よかった....

糸魚川の手前姫川のあたりでは、海岸線のすぐ近くに、まだつながっていない北陸新幹線の高架線がポツン、ポツンと建っています。
昨日、富山のニュースで、佐渡の西側に2つの大きな断層があり、日本海に地震が起こったらマグニチュード7ぐらいのものが起こるであろうと報じていました。その時の津波に耐えられる設計がしてあるのだろうか、などと思いながら、止まっている工事の流れていく痕跡を眺めました。

予測した最大の規模に対応できるようにしていたけれども、予測を超えたのが今回の津波ということならば、その教訓は、予測する以上の規模を最大として対応すべきなのであろうか。予測以上の予測??

経済しか考えないで、命を命がけで予測しなかったとしたら、ゲンパツは、ゲンパツに処すべし。

糸魚川で特急はくたかにり換え(14:38発)、直江津からほくほく線に入ると、新潟の内陸はまだ雪が残っていて、越後湯沢までずっと雪景色、白く輝やく山の稜線の間の細い平野を縫うように列車が走ります。
越後湯沢で新幹線に乗り換え、東京までは76分。利根川の作った平野では、麦なのか、広いはたけの緑が続いていました。
東京着は、17:20なので、入善(14:00発)からは3時間20分の旅です。
そこから千葉の自宅までが、もう一つの旅で、最寄りの土気駅についたのが、19:00でした。