2010/09/23

領土問題、正義、行動の動機づけあるいは優先順位のつけ方、気持の持ち方について

尖閣諸島の問題、対応の仕方については賛否両論あれこれありますが、これ以上エスカレートしない方向に向かったようなのでとりあえず一安心です。
この件では、領土問題になぞらえた下世話なアナロジー“草刈領土問題”を展開させてみましたが、この事件や郵便割引制度の裁判を契機に、少し立ち止まって考えてみたことによって、私は、よい体験をし、貴重な教訓を得ることができました。

「….ブツブツしながら、結局は、熊手で、大きな草をさっとさらいました。….」

前回気が付かなかったのですが、これがとてもよかったと思います。家の前の道路を汚していた草片を取り除いたことによって、気持ちがよくなり、恨みがましさが減少したのです。問題は、誰が汚したかではなく、そこが汚れていること。
問題をその場ですぐに解消することによって、ドーパミンが分泌されたのでしょう。

「そういえば、『思い立ったが吉日』という諺があるが、あれはこういう脳の働きも含めた言葉なのだな」と勝手に解釈し、以来、「あっ、これ!」と、思うようなことがあれば、すぐその場で対応するようにしてみました。その場で対応といっても、廊下にゴミが落ちていたら、箒を持ち出して掃除を始めるのではなくて、腰をかがめてそのゴミを拾うだけにするというような、些細なことです。言葉を変え、状況も変えれば、「あれにしようかこれにしようかと悩んでいるときは、『今、できることをやる』」という簡単なことです。「タテのものをヨコにする」だけでもいいのです。

『領土問題、正義、行動の動機づけあるいは優先順位のつけ方、気持の持ち方について』の教訓

対人関係、コミュケーションにおいては、融和を前提とすること偏りなく、広い心を持って対する

対立する 可能性をはらむ関係・間柄においては特に

好き嫌いがある時は、それを増幅させないこと。

“嫌いには好きがある”を思い出し、好きなところを思い出す、あるいは、見つける。

それでも嫌いが残るのならば、理性が嫌うだけにし、感情的な嫌いにしない

行動の動機づけ、あるいは、優先順位のつけ方

優先順位を考えるのはよいことだが、ことに当たってはそれにこだわらない
場/状況の求めを読んで、その場でできることをやる

正義・判断・決断

常日頃考えていることの中からしか、判断が生まれない
考えられないことは、考えない

気持ちの持ち方:あたま(明るく・楽しく・前向きに)を忘れていました

尖閣諸島事件にちなんでわがアナロジー

2日前の敬老の日、我が家の前のあぜ道に長くのびた草が草刈り機で刈り込まれ、刈られた草片が家の前のアスファルトの道路に散乱したままでした。

昨日も、草は依然としてそのままでした。

「これは”領土侵犯”であり、抗議をしなければならない」
草を刈った人は掃除をしようと考えてもいないのでしょう。前もそうでした。汚れた道路を掃いてきれいにする母を目の前で見ていても、汚した後始末をしようとしなかったのです。

「草は肥やしになるからとそのまま放っているのかもしれないが、舗装の道に肥やしは不要。他人の家の前を汚しておいて、掃除をしないとは、無神経すぎる。でなければ、いやがらせでしかない。」

私が掃除をするとすれば、10分ぐらいで済むでしょう。しかし、「私にはすることが沢山あって、人が汚した道路を掃除する暇などない。」
掃除をするための動機づけとして、先日書いたことのある、(掃除をしたあとの)「あるべき姿」のイメージづくりは、ここでは役に立ちません。

「中国のようにストレートに物言いするのも品がない。今度、草刈をしているのを見つけたら、その場で言うのが一番...」
そうブツブツしながら、結局は、熊手で、大きな草をさっとさらいました。

草が散らかって領土侵犯になるなら、毎日いたるところで戦争が起こるでしょう。
「日本人は、道路がきれいと外国人に驚かれるほど近隣の公の場をきれいにするのが当り前であり、ましてやし、他人の家の前を汚したのであれば、きちんと元のままにするのが正義である。」と自分の正義(または国内法?)をかざしてつっぱり、関係をこじらしてもよいほどの大事でもありません。

今日、強い風が、草を吹き飛ばしました。そして、ただいま現在、雷を伴った大雨が、残った草のすべてを洗い流しています(と思われます)。

こんな風にあれこれ思ったのも、モグラの穴や水の管理の怠りで、その田んぼのあぜのから再三水が漏れこの道路を汚したことに不満を持っていたことの表れでした。

自分に、相手を悪く思う気持ちがあれば、それは、必ず相手に伝わります。
水が流れたのは、モグラや雨で増水したからで、あの人が手を下したわけではありません。
あの人については、いいところを見つけることにしましょう。

2010/09/16

iPad 購入後の1週間

私は、毎日が、本来の目的ではないことをしてしまうことの連続です。
この1週間は、毎日、ほとんど外に出ずに、手に入れたばかりのiPadをいじっていました。
iPadは、いじっているうちに、iPadのアプリケーションを開発してみたいと思うくらい、魅力的なものに感じられました。
開発のためには、MacPCを購入して環境を整えることから始めなければならないことも調べ、あわやその気になろうとさえしました....

iPadで何がしたかったのかと言えば、自分の時間を有効利用することだったのに、手段が目的と入れ替わろうとしています。

そこで、改めて、本来の目的を思い起こし、「自分の時間のコントロール/マネジメント」という観点を忘れないようにと、戒めています。
ツールをおもちゃとしたらいけない!!! この環境とこの歳で...と。

電話のメール環境しかないN君がiPadを使えるかどうかを見極めることも、一つの目的でした。
set upされたiPadを使うことは、難しくはありませんが、左手が不自由だと、物理的な困難がたくさんありそうです。
また、iPadは親機としてのPCがあることが前提なので、この前提をブレークスルーする必要もあります。

凛の会事件の被告と検察

「私は泣かない、屈さない」村木厚子(文芸春秋 10月号 p.94-115)を読みました。自分を苦しめたことを書いているにもかかわらず、読んだ後もさわやかさが残るのは、この人の持っているものの表れなのでしょう。
事実の追及が中途半端な若い検察官を、批判は抜きにして、大きな目で見ている様子にも、好感がもてました。
途中、保釈金の仕組みをネットで調べたりりして、少し利口にもなりました。

はじめに仮説を立て、取り調べでその検証をするという調書の作成方法は、石の中から女神を掘り出す彫刻家の技量が求められるのに、検察官が束になって、捻じ曲げた像しか掘り出せないのは嘆かわしいことです。本来の目的が「凛の会」事件の構図を明らかにすることではなく、誰かを陥れようとする意図であるとすればなおさらです。
仕事では、上から降りてきたものを理屈抜きにこなさなければならないことがありますが、物や金を扱う商売と違って、人の生活や時間、命を扱う仕事は、倫理観が大切ですね。
そういう意味で、いま読書半ばで止まっている『これからの「正義」の話をしよう』を最後まで読む優先順位が上がりました。

2010/09/13

村木女史

M君のメール:

冤罪に巻き込まれた村木厚子(労働省の局長)には、いささかの感動を覚えています。検察批判をするでもなくタンタンと心境を語るのを見ると、この人の人格・資質の強靭性は如何にして作られたのか、などと考え込んでいます。凡百の官僚批判を吹き飛ばした感もあるね。



私:
「これ以上私の時間を奪わないでほしい」という言葉が印象的でした。
いわゆる高級官僚というイメージとは異なっていて、高知大学出の、田舎の出身の、という形容詞がついて、支援者も多いようです。
この件が初めて報道されたころ、仏頂面の(ような)写真を見て、「さもありなん」などと思ってしまった失礼を穴埋めするために、 文芸春秋の独占手記を読んでみようと思っていたところです
インターネットで調べてみると、佐藤優氏のコメントがあって、『国策捜査』なる用語を知りました。
「村木氏の弁護を担当した弘中惇一郎弁護士は、鈴木宗男氏の弁護人でもある」ということも知って、検察に対する不快感の輪郭がより濃くなりました。

2010/09/02

風の盆

昨日、八尾まで足を延ばし、初めて「風の盆」の踊りを見てきました。
おわら節にはかつてほとんど関心がなかったのに、この変わりようには自分でも驚いています。

もっと驚いたのは、入善や黒部、魚津の山沿いと似たような地形の八尾の町が、豊かな街並みを残して今も栄えている(ように見えた)というところです。

諏訪町という通りは、電柱を取り外し、いしだたみを施し、人工的に整形された古い街並みながら、日本の道百選に選ばれたようで、踊りの流しを待つ1時間に感じた地元の人の誇りも相当のものでした。

諏訪町の踊りには、細い通りにびっしり詰まっていた見物客を、除雪した雪のように道の両脇へ追いやり、踊りのためのスペースをしっかり確保する役割の人がいて、見物人を厳しく取り仕切ります。

ここから動くなと移動を制限されてから、待つこと小一時間。お花というご祝儀をもらうと、その場所の前で丁寧に踊るので、前に進むのが遅くなるらしく、100mぐらいを進むのに1時間もかかりました。

その前に、見物した上新町の踊りは、混雑していても、観客は自由に移動して観ることができ、踊りの流れもスピードがあり、30分で終わりました。
踊り手は、控えの場所から出て踊り始めの坂の上に移動するとき、これからスポーツの試合でも始まるかのように、盆踊り風の掛け声をかけあって、若々しいエネルギーが期待を盛り上げました。踊りの前を、三味線、胡弓、太鼓、音頭取りが先導し、おわら節の歌は一節ごとに年配の歌い手が交代して歌いあげます。

踊りの流し方は、11の保存会ごとにそれぞれの特徴があるということです。
観光客・見物人として目の前の歌と演奏を初めて体験した上新町の踊りは、自由な雰囲気の楽しい踊りでした。
ずいぶん待たされた諏訪町の踊りは、初めてという感動がない分、歌と踊り以外のことが目につき、管理の行き届いたスノビズムの踊りという印象しか残りませんでした。


町流しについては、素人の感想ではなく、通のコメントができるようになりたいと思います。


駐車場に帰るシャトルバスは最終23時ということなので、諏訪町の踊りが目の前を過ぎた22時20分ぐらいに、時間切れで帰りました。

バス乗り場に戻る途中の道端で、三味線、胡弓を持って歌う浴衣姿の3人---50-60歳の男性と、20歳代ぐらいの女性---の歌う前に、それに聴き入る人が立っていて、自分もその中に入ってみたくなりました。

2010/09/01

田舎と都会

富山と千葉を往復するときにいつも感じるのは、人のたたずまいの密度の違いです。

8月31日、友を見舞った後、松戸からの東京への常磐線の沿線は、住む平面の飽和状態が徐々に垂直の方向にも飽和度を増し、幾重にも重なる屋根や屋上のはるか向こうに建設中の東京スカイツリーが見えはじめ、だんだん大きく高く見えてきました。その間の視界には、ビル建設用のクレーンがニョキニョキ伸びていて、ますます密度を濃くしようとしています。

一方、入善・黒部から越後湯沢を経て新幹線で関東平野に出るまでは、緑の間にポツンポツンと人が住んでいるところがあるだけ。
おさな馴染みは、子供が都会に出て行ってしまった今、田舎のこの家をどうしようかと、問います。

入善の明文堂では、新聞の書評で見た本はほどんど見つからないが、丸の内丸善に行けば、山積みになっているその実物を手にとって、パラパラめくってみることができる....

混雑した東京を避けて設けた外房線沿線の我が家も、入善と比較すれば都会。人工の町です。

入善の実家は、自然の道(というよりは、かつての道)を分断して、農業の都合に合わせて整地された人工の自然です。

人工の住まいは、何も手をかけないで放っておくと、草木はのび放題となり、家は朽ちてしまいます。
人工を育て保つには、強い意志が求められます。

人工が生き残って文化になります。