2009/03/21

WBCの秘策

3月19日 対キューバ戦 :2点リード、四回二死一、三塁。
城島が、ピッチャーズ・マウンドに行って、岩隈になにやらひそひそ話している。

「岩隈はいいピッチングをしているのにいったいなんでしょうね?」
城島がポジションに戻ると、岩隈は城島のサインに2~3回---「いや5~6回だ」と妻は言う---首を横に振った。

”どうした? ! ? ...”

TVで観戦している日本のフアンだけでなく、キューバのバッターもそう思った。

岩隈投げた。バッター振った。ショート・ゴロ。
ショート軽く裁いて、一塁送球、アウト!!

「佐々木さん、あれは何を言ったんですかね?」
「『いいボールだよ』とでもいったんでしょ。」
「そして、『首を振れ』とででもいったんでしょ。」
「はーアッ。そんな心理作戦もあるんですね。」
曖昧な記憶は、上記のように書かせたが、実際は三振だったようです。

http://www.google.com/url?q=http%3A%2F%2Fwww.daily.co.jp%2Fbaseball%2Fwbc2009%2F2009%2F03%2F20%2F0001765544.shtml&sa=D&sntz=1&usg=AFrqEzfR7EDjaMXUds5uK2Bt4B0yBbPQ4w
Japan tops Korean in 10 innings to win WBC Wa WBC Final

リンク先の文のコピー:
城島、投手に首振らせ球種惑わせた 「WBC第2R敗者復活2回戦、キューバ5-0日本」(18日、サンディエゴ)  赤いミットを力いっぱいたたいてみせた。2点リードの四回二死一、三塁。二回に二塁打を放たれたアンダーソンを空振り三振に仕留め、この日最大のピンチを切り抜けた城島は、意気揚々とベンチへ引き揚げた。  カウント2-2と追い込んでから3球連続で要求したフォーク。試合後は原監督も投げた岩隈も言葉を濁した“秘策”を、城島が気持ちよさそうに解説した。  「あそこは、わざと(岩隈に)首を3回振らせて、1回マウンドを外させて、もう2回(首を)振らせて同じ球を投げさせた」。2球ファウルで粘られた後の3球目で仕掛けた心理戦に完勝し「会心っちゃあ会心でしたね」と、満面の笑みを浮かべた。  この日の岩隈は18個のアウトのうち内野ゴロが15個。「左打者にはスライダーでファウル、追い込んだらフォークがある。右にはフォークを見せてからシュート。完ぺきでしたね」と快勝劇を振り返っていた。

2009/03/13

遅読法

速読法ならよくきくが、遅読法はあまり耳にしない方法だろう。

遅読法

紹介されている2つの方法---自分で朗読したものを録音して聴く、外国語に翻訳する---は、自分の発音の矯正や、内容の理解・紹介のために利用したことはあっても、著者と対話して思考を読み解くための方法として、あるいは、著者を深く読むための読書法のひとつとして、使ってみたことはなかった。
だが、これはいけそうだ...

  作成済みの、応募予定の就職先への志望動機や自己PR文があった。

  
そこに書いてあった文章は、断片の寄せ集めで、非論理的な、自分にも理解できない、ましてやそれを読む人にはもっとわからないことの羅列であった。
  「あなたはそこにそのように書いているけれども、本当にそのように考え、それを望んでいるのですか?」 と、自分に問うまでもなかった。

  今日の締め切りを明日に延ばし、自分が納得できるかたちのものにまとめ直した結果、嘘の心や飾りは消え、自分の中の真実が、より具体的に表現されるように変化した。

このことを通して、応募時の競争や選考結果を意識する前に、自分と対話し、自分が真に求めていることを意識することが大事であることが分かった。
  こうして、応募文書を練り直すという本来の目的に加えて、自分の内面が自分と平衡したかたちで整理されるという、思いもよらなかったメリットが得られたのである。


  新聞の記事では、遅さの技法は、第三者である著者がいて、その作品を通して、著者との対話を行うための手法として紹介されているが、この技法は、上記のように、自分との対話にも応用できる。

  自分の考えを声に出し、文章にすることは、普段、誰もが行っていることである。
それが、日記やブログ、あるいは、作品・著作という場合があるかもしれないが、自分が作ったもの、過去のもの、として残っている場合、それを通して、自分との対話が可能になるのだ。既に作成されたものがある場合には、これは、過去の自分と現在の自分との対話である。

  遅さの技法は、現在の自分との対話においても、利用できる。自分の心を朗読し、それを聴き、自分の心を外国語に翻訳しそれを読む。言葉にできないものが言葉になり、難しく考えていたことを簡単な単語に置き換えることによって明快になる。

  ここまで書いてみて、ようやく、なんだ、これは考えることの基本であって、誰もが、いつも、行っていることではないか、ということに、遅まきながら気がついた。









2009/03/03

納棺夫日記

2月23日、アカデミー賞の受賞発表待ちの中継をみていて、そういえばうちに「納棺夫日記」があったなと思い出し、取り出してみたところ、富山のうちから借りてきていたものだった。借りてはきたものの、そのタイトルは、心の準備が必要だと思わせる、少し重い存在だったので、何気なくページを開いてみることもなく、本棚の奥のほうに追いやられていたのである。

裏表紙に、「H5年7.17.メルシーにて求む」と記してあるので、父の死の5ヵ月後、母が買って読んだもののようだ。2箇所に傍線が引いてある。

  • 末期患者には、激励は酷で、善意は悲しい。説法はいらない、言葉もいらない、きれいなあおぞらのような目をした、すきとおった風のような人がそばにいるだけでいい。(第三章 ひかりといのち P.110 )
  • この原稿を書き終えたとき、正岡子規の『病床六尺』にある『悟りといふ事は如何なる場合でもも、平気で死ねることかと思って居たのは間違いで、悟りといふ事は如何なる場合でも、平気で生きて居ることであった』という言葉が実感としてわかるようになった。 ( あとがき P.188)


映画 『おくりびと』の陰の原作であるこの本、調べてみると、作者は入善出身の青木新門さんで、詩人。早稲田大学を中退して文学を目指したが食えず、子供のミルク代のためにオークスに勤め始め、実際に納棺の仕事をやった人であった。この本の結びの日付は平成5年2月28日となっている。 父が亡くなったのも、今から16年前、平成5年2月で、もしかすると、父の湯灌をやっていただいたのはこの新門さんかも知れない。そうでないとしても (その可能性が高いが)、新門さんに指導をしてもらった弟子、あるいは、孫弟子のどなたかがやってくださったのだ。

本の内容は、フィクションではなく、本人の日記を整理したもので、葬送の儀式を経験した人しか伝えられないリアリティーがある。けがわらしいと奥さんに避けられた話や、死体から湧いた蛆虫が光る光景、死臭が抜けないので鼻毛を抜いたら臭いがしなくなった話、縊死や轢死の凄惨な現場の話は、覚えようとしなくても記憶に残る。

その日、全編を、深夜午前3時に読み終えた。

亡くなった人を清める儀式のお手伝いをすることを通じて、新門さんが悟り、伝えたかったかったことは、次のようなことになろう。


1. 死に臨む人に安らぎを与え、亡くなる方を導き、残された遺族の心を癒すのが、宗教や医者の本来の機能であるのに、

  • 仏教は、宗派ごとに異なるしきたりに固執するような葬式仏教に成り下がり、
  • 医者は、心の平安とは無縁の延命主義を続けている。


2. 亡くなった方の顔は、さわやかな風のようにすっきりし、穏やかな神々しさがある。

  • それは、光るものをみるという臨死体験をしたからである。


3. ひかりを体験をした人たちとして、釈迦、親鸞、宮沢賢治がいる。

  • 釈迦は苦行ののち生死を超えた菩薩としての『生』を生き、教えを説いた。
  • 親鸞は仏陀の教えを見通して、ひかりを信ずることを説いた。
  • 詩人、宮沢賢治も、病の床でそのひかりを体験した一人である。


4. 詩人は、ひかりを見た存在なのだと思うようになった。

  • 詩人は、概して、生き方が下手で、中途半端に生きている。 *著者は自分がそのうち一人であることを自認している。
  • ひかりを見たからといって、悟りが得られるわけではない。
  • 親鸞は、そのことを知り、次のように結論し、説いた。


5. 苦行して悟りを得ようなどとはせず、だた、ひかりを信じなさい。

  • 悟り帰命無量寿如来、南無不可思議光


本の後半には、新門さん一家が、満州から引き上げてきたときの、妹や弟を亡くした話も載っている。それは、上にあげた新門さんの考えが、単に納棺夫の経験をしただけでは生まれてこない、深い重い体験の中からより出されてきたことを、物語っている。
読んだときの最初の記述が的を得ていたかどうかを確かめるために、さっとポイントとなるところを読み返してみた。(3/1/2009)


かいつまんだことは、ほぼその通りだったが、分かりやすくするために、少し手直しをした。上記のように考えた根拠を、ポイントの番号と、それを示す本文からの抜粋というかかたちで、以下に示す。

1. 死生に対する本来あるべきすがたについて

  • 釈迦や親鸞の言葉には、生死を超えたところから発せられているような言葉がある。善悪の場合でも、善も悪も突き放した第三の視点から善悪を見ているようなところがある。それはどんなところかということになるが、善悪や生死を超えた第三のところで生と死や善と悪が双方とも見えるようなところでなければならない。(p.55)
  • 今日のようにあらゆる情報が氾濫する時代にあって、芸術家の多くが人間的尺度の、いわゆる等身大の作品に終始しているのも、死を直感することなく、むしろ死を避けるようにして、生側にのみ立つ視点で世界を見ようとしていた結果かもしれない。(P.61)
  • 視点の移動をしないで、『生』にだけ立脚して、いくら『死』のことを思い巡らしても、それは生の延長思考でしかない。また人が死の世界を語るとき、それは推論か仮設でしかないであろう。
    死後の世界へ旅立つことが、白い巡礼の衣装をまとい、杖をもち、六文銭をもって三途の川をわたるというような発想は、生の思考の延長線上から生まれたものにほかならない。
    中略
    いつの時代になっても、生に立脚し、生に視点を置いたまま適当に死を想像して、さもありなんといった思想などを構築するものが後を絶たない。特に、感性は生に執着し、知性だけでものを考える知識人に多い。(p.63)
  • 私が、この死に関わる葬送儀礼という仕事に携わって驚いたことには、一見深い意味を持つように見える厳粛な儀式も、その実態は迷信や俗信がほとんどの支離滅裂なものであることを知ったことである。(p.64)
  • <死>は医者が見つめ、<死体>は葬儀屋が見つめ、<死者>は愛する人が見つめ、僧侶はなるべく見ないようにして、お布施を数えているといった現状がある限り、今日の宗教に何かを期待する方が無理と言えよう。しかし、<生>にのみ力点を置いてきた今日の我々は、このままでは何か変だぞと気づき、世界に類を見ない高齢化社会を迎えて、とまどい始めているのも事実である。(p.109)


2 親鸞の説いたひかり

  • 親鸞が描いた浄土のイメージは、『ひかりの世界』なのである。阿弥陀如来は『ひかり』そのものであり、親鸞はそのひかりのことを、『無碍光』と称したり『不可思議光』と称したりすることが多かった。
    中略
    はかりしれない、きわもない、すきとおる自在の光であり、ならびなき明るさの光であり、きよらかなよろこびにみちた知恵の光であり、ときつくすことも説明することもできない光だと言うのである。(p.71-72)
  • ひかりとの出遭いとは、如来との出遭いということになり、ひかりの世界を垣間見るとは、浄土を垣間見るということになってしまうが、少なくとも親鸞は、高見順が出遭った光や井村医師が出遭った光や宮沢賢治が死の淵で見た透き通った空や風の世界を体験していたのだ。
    中略
    人が死を受け入れようと思い立った瞬間に生じる不思議な現象こそが、親鸞を解く鍵だと思う。この不思議な現象は、理性では理解できない異次元の現象であって、実体験以外に理解の方法はない。(p.77-78)
  • 親鸞がこの『ひかり』を不可思議光と名づけた通り、このひかりにで出遭うと不思議な現象がおきる。まず生への執着がなくなり、その結果死への恐怖もなくなり、安らかな清らかな気持ちになり、すべてを許す気持ちになり、あらゆるものへの感謝の気持ちがあふれ出る状態となる。このひかりに出遭うと、おのずからそうなるのである。(p.78)
  • 死体や霊魂や死後の世界などは、さんたんたる世界にいる人々の関心事であっても、死者にとってはすきとおった風の世界からすき透るひかりの世界へストレートに進むだけである。そこには死もないから、往生という。生きて往くのである。(p.86)


4 .ひかりを体験した悩める詩人

  • 最近になって、この世に詩人というものが生まれるのは、人生の初期段階で、あの不可思議光がかかわっているのでは無いだろうか、と思うようになった。中略まず、詩人たちは一様に、ものへの執着が強くなく、そのくせ力もないのに人への思いやりや優しさばかりが目立ち、生存競争の中では何をやっても敗者となり、純粋な美しいものに憧れながら、時々異常に生に執着し愛欲や酒に溺れ、言っていることのわりにやっていることは醜く、世に疎まれながら生きていくというパターンが多い(p.92-93)
  • このように、詩人たちを生む要因は、特に幼年期に実母との別離を伴う捨て子、養子、継子、孤児などいろいろあるが、大概そんな場合、両親の離婚、家業の倒産破壊、一家離散などと絡み合っており、血が澱み始めた斜陽家系の末裔などの場合も多い。(p.97)
    宮沢賢治のように法華経に救いをみいだそうとした人はまだどこかに救いがある。世の中には、詩もかけない詩人が、何をやってもうまくいかない心優しい詩人たちが、たくさんいる。中途半端な『ひかり現象』の後遺症に人生を狂わされ、のたうちまわって何がなんだか分からぬうちにっ人生を終えた人も多くいることを知らねばならない。(p.98)
  • (宮沢)賢治は、自分自身に切れ切れの考えを統合せよという命題を投げかけている。科学は『科』の学問で、分けるという意味である。
    中略
    しかしこうしたきれぎればらばらの発展進歩は、人の幸福という分野とは無関係に進み、むしろ人の心を不安におとしいれてゆく結果となる。 宮沢賢治は、きれぎれの考えやあらゆるものが、一瞬『ぽかっと光る』ひとつところへ集約されてはじめて統合が可能だと思っていた。
    中略
    親鸞であれば、『ぽかっと光る』--そこまで分かっているなら、即ち『その道理をこころえつるのちは、この自然のことはつねにさたすべきにあらざるなり』と言って、唯その不可思議光を信じなさいと言うところである。(p.113-114)


5. 親鸞の結論

  • 親鸞は菩薩とは何かということを知れば知るほど、自分にはとても出来そうにない、出来ると思った瞬間欺瞞が生じる、まして聖動門で悟りを得ようなどとはとんでもない、釈迦でさえ死ぬほどの苦行でも得られなかったのだ、法然の教えに従って『不可思議光』の到来を信じればよいのだ、南無不可思議光の普通の人間でよいのだと、人間として真実に生きる方を選んだのである。(p.94)
  • 親鸞は、この不可思議光が一如の世界をおのずからもたらすと信じていたのである。そして、宇宙や星や地球上の生物などの生成と消滅を超えた永遠の存在として、また生きとし生けるもの一切に現れ救っていく不思議な存在として、この光如来に絶対の信をおいていたのである。(p.114)
  • 帰命無量寿如来  とわのいのちと
    南無不可思議光  ふしぎなひかりに   帰依します  (p.114)