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2009/08/22

家族のいい訳

お友達から、次のメッセージをもらった(8/10)のをきっかけに、『家族の言い訳』を読むこととなった。

『家族の言い訳』 森 浩美 著
森さんは、SMAPの♪青いイナズマ♪などの作詞家さんだそうです
あとがきに「薄情で軽薄な世の中になったとはいえ、家族との絆は深く重く、そして厄介で面倒な代物である。希望やあきらめ、下ろすに下ろせない荷物を背負うがごとく、誰しもが日々のなかで共生している。
淡々とした悲しみや切なさ、ささやかな幸せの確認。・・・そんな場面を切り取ってみたかった。」とあります。

本日、「家族の言い訳」を手に入れ、はじめの2編を読み終えたところで、この作者のことが知りたくなり、調べてみて、男性であることに意外性を感じました。女性と思ってしまったのは、名前と、第1話に関し解説でNHKのアナウンサーたる人が熱のある子供の描写のリアリティーに感心していたのが大きな理由ですが、男性だと分かれば、納得の折り目を多くつけた第2話のストーリーにより共感したのもさもありなんです。女性の言葉だと思ったからこそ、惹きつけられた面が多々あるので、そこに自分を知る鏡の要素があります。

「得たものがたとえわずかであったり、たとえ、あきらめであったりしても、無駄なものはひとつもない」は至言ですね。

昨日読んだ芥川賞受賞作『終の住処 』の作者も、受賞者インタビューの中で似たようなことを言ってっていました。

-なぜ時間や過去に文学のテーマが定まっていったのでしょう。
磯崎:ある人がこの世を去った時、何が残ると思いますか。...その人が生きた具体的な時間しか残らないような気がしてならないんです。...その人が生きた時間は、決してほかのものに置き換えることができない。...過去こそ消しがたい。それが..「過去に守られている」という感覚です。

若いころ、楽しい過去と明るい将来の狭間の中でいつも現在を嘆いている自分に気づき、「大事なのは過去でも未来でもない、今である」と自分に言い聞かせたことがあります。まだ世の中が見えなかったころ、今となってはたわいもないことすべてに悩んでいたものです。以来、"谷間"にいると感じたときは、これを"頂上"と見なければいけないとし、それが一期一会ということなのだと解釈して、そのようにしてきたつもりなのですが、それでも、巻頭言の言葉に、必要でないところで言い訳をし、必要なところで言い訳をしてこなかったのだな、と考えさせられました。

2009/08/20

『終の住処』を読んで

今週一杯仕事は休み。今日は家事をしない日と決め、今朝は、昨夜から読みはじめた芥川賞受賞作『終の住処』とその選評を楽しみました。

読んでいたときの私の感想:

  • 小説の中の状況や景色の表現の一つ一つに、作者がそれまでの人生で経験したことが50%あるいは100%誇張されて表現されているような印象がする。
  • スジは徐々におもしろくなってきたが、そのことよりも、個々のディテールが目立ち、行き過ぎな表現だとは思いながらも、そうだそうだとうなづく。
  • 小説家は、こうしたディテールを常日ごろ部品として使えるように準備していて、作品としての製品を作る過程で、これらを加工・微調整しながら、全体の中に配置し納めていくのだろうな。
  • おもしろかったのは:
    妻と娘と一緒に遊園地に行った翌日から11年間、妻との対話をしないでいたのに、「家を建てよう」という言葉が、停止していたビデオ・テープを開始させるボタンのように働いて、再び家族の生活が始まる、というところ。

その後読んだ選評は、そういう捉え方もあるのかという選者の視点がおもしろく、そこから、選者の人となり考え方が伝わってきました。
さらに、受賞者インタビューでは、三井物産に勤めるというサラリーマン作家の人となりや小説にこめた意図などを知ることができ、久しぶりに気持ちのよい朝になりました。

小説は、書いた人、選んだ人を知るためのものかもしれない

などと思ったすぐ後で、いやその前に、それを読んで、そこから何を感じるか、考えるかという、自分を知る手立てなのだ、と思いなおしました。


『終の住処』の書評等: お勧めというわけではありませんが、参照した記録として。

2009/08/22 11:06


http://www.book.janjan.jp/0907/0907217521/1.php
http://ameblo.jp/tonton3/entry-10312377910.html
http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20090517/1242574247
http://pokemon.at.webry.info/200908/article_14.html
http://blog.livedoor.jp/nina313/archives/51293890.html
http://book.akahoshitakuya.com/b/410317711X
http://www.honsagashi.net/bones/2009/08/post_1564.html
http://blogs.yahoo.co.jp/gogokoniyan/49165706.html
http://essaysinidleness.net/review/bookreview/20090725001343.html http://saysei.blog.drecom.jp/archive/1097
http://natsuo-omodaka.no-blog.jp/qualia/2009/08/post_4c4d.html
http://www.honnomushi.com/review/2009_08/0003.htm

2009/04/16

動的平衡

  • 生命現象は、動的な分子の平衡現象ルドルフ・シェーンハイマー
  • タンパク質の新陳代謝速度が、体内時計の秒針なのである。年をとるとタンパク質の代謝回転が遅くなる
  • 脳は、ありのままではなく、デフォルメされたものを見る。
    世界のありようを、直感的にしか見ていない。=>直感に頼るな
  • 自然界のインプットとアウトプットの関係は、シグモイド・カーブという、Sを左右に伸ばしたような、非線形をとる。
  • 貯蓄のメカニズム
    • インシュリン:血糖値が上昇すると合い量に放出される=>
    • 脂肪細胞の表面のインシュリン・レセプターと結合し、脂肪細胞に情報を伝える=>
    • 脂肪細胞内部の格納庫からブドウ糖輸送対が運び出され、細胞膜上に突き刺さる
    • 血流に乗ってやってくる余分なブドウ糖が取り込まれ、脂肪となって蓄えられる
  • 消化がゆっくりと進むスロード=グリセミック・インデックス(GI値)=どれくらい血糖値をあげるかを数値化したものhttp://www.drrk.net/gi.html
  • 貯蓄時には、一時的に血糖値が低下、身体は同化モード=副交感神経優位=眠い
    • そんなときでも血糖値を高く保ち、臨戦モードを維持する=糖尿病
  • ES細胞=エンブリオニック・ステム・セル=胚性幹細胞
  • 分子の相補性 精子と卵子のミクロなタンパク分子が合致する=種の同一性の保持
  • 細胞:細菌:ウィルス:プリオン・タンパク質=こぶし:米粒:点:1/1000
  • ミトコンドリアは細胞内に取り込まれた別の生命体
    • 酸化能力=>エネルギーを供給
    • 母系
  • 象、鯨の低周波のコミュニケーション
  • 豚の知能

2009/03/03

納棺夫日記

2月23日、アカデミー賞の受賞発表待ちの中継をみていて、そういえばうちに「納棺夫日記」があったなと思い出し、取り出してみたところ、富山のうちから借りてきていたものだった。借りてはきたものの、そのタイトルは、心の準備が必要だと思わせる、少し重い存在だったので、何気なくページを開いてみることもなく、本棚の奥のほうに追いやられていたのである。

裏表紙に、「H5年7.17.メルシーにて求む」と記してあるので、父の死の5ヵ月後、母が買って読んだもののようだ。2箇所に傍線が引いてある。

  • 末期患者には、激励は酷で、善意は悲しい。説法はいらない、言葉もいらない、きれいなあおぞらのような目をした、すきとおった風のような人がそばにいるだけでいい。(第三章 ひかりといのち P.110 )
  • この原稿を書き終えたとき、正岡子規の『病床六尺』にある『悟りといふ事は如何なる場合でもも、平気で死ねることかと思って居たのは間違いで、悟りといふ事は如何なる場合でも、平気で生きて居ることであった』という言葉が実感としてわかるようになった。 ( あとがき P.188)


映画 『おくりびと』の陰の原作であるこの本、調べてみると、作者は入善出身の青木新門さんで、詩人。早稲田大学を中退して文学を目指したが食えず、子供のミルク代のためにオークスに勤め始め、実際に納棺の仕事をやった人であった。この本の結びの日付は平成5年2月28日となっている。 父が亡くなったのも、今から16年前、平成5年2月で、もしかすると、父の湯灌をやっていただいたのはこの新門さんかも知れない。そうでないとしても (その可能性が高いが)、新門さんに指導をしてもらった弟子、あるいは、孫弟子のどなたかがやってくださったのだ。

本の内容は、フィクションではなく、本人の日記を整理したもので、葬送の儀式を経験した人しか伝えられないリアリティーがある。けがわらしいと奥さんに避けられた話や、死体から湧いた蛆虫が光る光景、死臭が抜けないので鼻毛を抜いたら臭いがしなくなった話、縊死や轢死の凄惨な現場の話は、覚えようとしなくても記憶に残る。

その日、全編を、深夜午前3時に読み終えた。

亡くなった人を清める儀式のお手伝いをすることを通じて、新門さんが悟り、伝えたかったかったことは、次のようなことになろう。


1. 死に臨む人に安らぎを与え、亡くなる方を導き、残された遺族の心を癒すのが、宗教や医者の本来の機能であるのに、

  • 仏教は、宗派ごとに異なるしきたりに固執するような葬式仏教に成り下がり、
  • 医者は、心の平安とは無縁の延命主義を続けている。


2. 亡くなった方の顔は、さわやかな風のようにすっきりし、穏やかな神々しさがある。

  • それは、光るものをみるという臨死体験をしたからである。


3. ひかりを体験をした人たちとして、釈迦、親鸞、宮沢賢治がいる。

  • 釈迦は苦行ののち生死を超えた菩薩としての『生』を生き、教えを説いた。
  • 親鸞は仏陀の教えを見通して、ひかりを信ずることを説いた。
  • 詩人、宮沢賢治も、病の床でそのひかりを体験した一人である。


4. 詩人は、ひかりを見た存在なのだと思うようになった。

  • 詩人は、概して、生き方が下手で、中途半端に生きている。 *著者は自分がそのうち一人であることを自認している。
  • ひかりを見たからといって、悟りが得られるわけではない。
  • 親鸞は、そのことを知り、次のように結論し、説いた。


5. 苦行して悟りを得ようなどとはせず、だた、ひかりを信じなさい。

  • 悟り帰命無量寿如来、南無不可思議光


本の後半には、新門さん一家が、満州から引き上げてきたときの、妹や弟を亡くした話も載っている。それは、上にあげた新門さんの考えが、単に納棺夫の経験をしただけでは生まれてこない、深い重い体験の中からより出されてきたことを、物語っている。
読んだときの最初の記述が的を得ていたかどうかを確かめるために、さっとポイントとなるところを読み返してみた。(3/1/2009)


かいつまんだことは、ほぼその通りだったが、分かりやすくするために、少し手直しをした。上記のように考えた根拠を、ポイントの番号と、それを示す本文からの抜粋というかかたちで、以下に示す。

1. 死生に対する本来あるべきすがたについて

  • 釈迦や親鸞の言葉には、生死を超えたところから発せられているような言葉がある。善悪の場合でも、善も悪も突き放した第三の視点から善悪を見ているようなところがある。それはどんなところかということになるが、善悪や生死を超えた第三のところで生と死や善と悪が双方とも見えるようなところでなければならない。(p.55)
  • 今日のようにあらゆる情報が氾濫する時代にあって、芸術家の多くが人間的尺度の、いわゆる等身大の作品に終始しているのも、死を直感することなく、むしろ死を避けるようにして、生側にのみ立つ視点で世界を見ようとしていた結果かもしれない。(P.61)
  • 視点の移動をしないで、『生』にだけ立脚して、いくら『死』のことを思い巡らしても、それは生の延長思考でしかない。また人が死の世界を語るとき、それは推論か仮設でしかないであろう。
    死後の世界へ旅立つことが、白い巡礼の衣装をまとい、杖をもち、六文銭をもって三途の川をわたるというような発想は、生の思考の延長線上から生まれたものにほかならない。
    中略
    いつの時代になっても、生に立脚し、生に視点を置いたまま適当に死を想像して、さもありなんといった思想などを構築するものが後を絶たない。特に、感性は生に執着し、知性だけでものを考える知識人に多い。(p.63)
  • 私が、この死に関わる葬送儀礼という仕事に携わって驚いたことには、一見深い意味を持つように見える厳粛な儀式も、その実態は迷信や俗信がほとんどの支離滅裂なものであることを知ったことである。(p.64)
  • <死>は医者が見つめ、<死体>は葬儀屋が見つめ、<死者>は愛する人が見つめ、僧侶はなるべく見ないようにして、お布施を数えているといった現状がある限り、今日の宗教に何かを期待する方が無理と言えよう。しかし、<生>にのみ力点を置いてきた今日の我々は、このままでは何か変だぞと気づき、世界に類を見ない高齢化社会を迎えて、とまどい始めているのも事実である。(p.109)


2 親鸞の説いたひかり

  • 親鸞が描いた浄土のイメージは、『ひかりの世界』なのである。阿弥陀如来は『ひかり』そのものであり、親鸞はそのひかりのことを、『無碍光』と称したり『不可思議光』と称したりすることが多かった。
    中略
    はかりしれない、きわもない、すきとおる自在の光であり、ならびなき明るさの光であり、きよらかなよろこびにみちた知恵の光であり、ときつくすことも説明することもできない光だと言うのである。(p.71-72)
  • ひかりとの出遭いとは、如来との出遭いということになり、ひかりの世界を垣間見るとは、浄土を垣間見るということになってしまうが、少なくとも親鸞は、高見順が出遭った光や井村医師が出遭った光や宮沢賢治が死の淵で見た透き通った空や風の世界を体験していたのだ。
    中略
    人が死を受け入れようと思い立った瞬間に生じる不思議な現象こそが、親鸞を解く鍵だと思う。この不思議な現象は、理性では理解できない異次元の現象であって、実体験以外に理解の方法はない。(p.77-78)
  • 親鸞がこの『ひかり』を不可思議光と名づけた通り、このひかりにで出遭うと不思議な現象がおきる。まず生への執着がなくなり、その結果死への恐怖もなくなり、安らかな清らかな気持ちになり、すべてを許す気持ちになり、あらゆるものへの感謝の気持ちがあふれ出る状態となる。このひかりに出遭うと、おのずからそうなるのである。(p.78)
  • 死体や霊魂や死後の世界などは、さんたんたる世界にいる人々の関心事であっても、死者にとってはすきとおった風の世界からすき透るひかりの世界へストレートに進むだけである。そこには死もないから、往生という。生きて往くのである。(p.86)


4 .ひかりを体験した悩める詩人

  • 最近になって、この世に詩人というものが生まれるのは、人生の初期段階で、あの不可思議光がかかわっているのでは無いだろうか、と思うようになった。中略まず、詩人たちは一様に、ものへの執着が強くなく、そのくせ力もないのに人への思いやりや優しさばかりが目立ち、生存競争の中では何をやっても敗者となり、純粋な美しいものに憧れながら、時々異常に生に執着し愛欲や酒に溺れ、言っていることのわりにやっていることは醜く、世に疎まれながら生きていくというパターンが多い(p.92-93)
  • このように、詩人たちを生む要因は、特に幼年期に実母との別離を伴う捨て子、養子、継子、孤児などいろいろあるが、大概そんな場合、両親の離婚、家業の倒産破壊、一家離散などと絡み合っており、血が澱み始めた斜陽家系の末裔などの場合も多い。(p.97)
    宮沢賢治のように法華経に救いをみいだそうとした人はまだどこかに救いがある。世の中には、詩もかけない詩人が、何をやってもうまくいかない心優しい詩人たちが、たくさんいる。中途半端な『ひかり現象』の後遺症に人生を狂わされ、のたうちまわって何がなんだか分からぬうちにっ人生を終えた人も多くいることを知らねばならない。(p.98)
  • (宮沢)賢治は、自分自身に切れ切れの考えを統合せよという命題を投げかけている。科学は『科』の学問で、分けるという意味である。
    中略
    しかしこうしたきれぎればらばらの発展進歩は、人の幸福という分野とは無関係に進み、むしろ人の心を不安におとしいれてゆく結果となる。 宮沢賢治は、きれぎれの考えやあらゆるものが、一瞬『ぽかっと光る』ひとつところへ集約されてはじめて統合が可能だと思っていた。
    中略
    親鸞であれば、『ぽかっと光る』--そこまで分かっているなら、即ち『その道理をこころえつるのちは、この自然のことはつねにさたすべきにあらざるなり』と言って、唯その不可思議光を信じなさいと言うところである。(p.113-114)


5. 親鸞の結論

  • 親鸞は菩薩とは何かということを知れば知るほど、自分にはとても出来そうにない、出来ると思った瞬間欺瞞が生じる、まして聖動門で悟りを得ようなどとはとんでもない、釈迦でさえ死ぬほどの苦行でも得られなかったのだ、法然の教えに従って『不可思議光』の到来を信じればよいのだ、南無不可思議光の普通の人間でよいのだと、人間として真実に生きる方を選んだのである。(p.94)
  • 親鸞は、この不可思議光が一如の世界をおのずからもたらすと信じていたのである。そして、宇宙や星や地球上の生物などの生成と消滅を超えた永遠の存在として、また生きとし生けるもの一切に現れ救っていく不思議な存在として、この光如来に絶対の信をおいていたのである。(p.114)
  • 帰命無量寿如来  とわのいのちと
    南無不可思議光  ふしぎなひかりに   帰依します  (p.114)

2009/02/11

なぜオバマ大統領に惹かれるのか?

なぜオバマ大統領に惹かれるのか?
2008年夏ころ、黒人問題に関する演説のScriptを読み感動したのがきっかけだ。
それまでは、本も読んだことのあるヒラリー・クリントン候補に対して、ただ演説がうまいだけだという評判と、何が実績かわからない--、つまり自分から何も情報を得ていなかっただけだが--オバマ候補の人気がうなぎのぼりしていく意味がわからなかったのだが、白人のおばあさんがバス停でお金を恵んでくれとせがんだ黒人男性を怖がったエピーソード等の内容に感動し、人気の秘密の一端をつかんでからは、オバマ候補に近親感を持つようになったのだ。
Dreams from My Fatherを買ったのは、選挙の結果が出てからであったろうか?初めは英語で読んでいたのだが、やはり難しいので、日本語訳を求め、2~3日で読み終え、それまで知らなかったその生い立ちや考方の基礎となる生き方等に触れ、以来、熱心なフアンになった。
では、彼の、どこをどのようにいいと思うのか?今、何も参照せずに、思い起こせることを列挙してみよう。

  • 弱いものの味方である
    弱気を助け強きをくじく
  • 選挙戦を戦ったヒラリー候補やマケイン候補をたたえ、ブッシュ元大統領にも敬意を払う姿勢。
  • 最も貧しい国で住んだこと、貧しい生活をした経験を、ばねにしている強さ。
  • 彼の演説に聞き入る人々の信頼を示す顔と潤んだ目、どの人もすばらしい顔である
  • 家族を大事にし、質素な生活をしてきたこと
  • 文章がうまい
  • 知性を感じる/難しい単語が沢山出てくる
  • 話しが聞き取りやすい
  • 和を強調している
  • 疲弊した資本主義、世界、を変えていく可能性を感じさせる力

2008 3月の演説のVideo

2008 3月の演説のScript

関連

2009/02/08

読書記録のtemplate

読書記録項目

  1. タイトル/著者/出版社
  2. なぜ買った/選んだか
    動機,その時の状況・背景,自分とのかかわり
  3. 概要・あらすじ/points,書評/紹介記事
  4. よかった点/悪かった点
  5. お勧めか否か
  6. お勧めの場合
    • なぜ
    • 自分との係わり合い
    • 自分の何が変わったか
~

2009/01/31

ハウツーを適用するときの前提

よくできたハウツーものの本には、なるほどそういうことなのか、と思わずうなづいてしまうところがあるが、実は、本当に必要な、それを適用するための条件や前提について、欠けているものがある。

ものを捨てるには、定期的に、整理するための時間をとり、要るか要らないかを判断し、要らないものを捨てろ、と書いてある。
すばらしい、そのとおりだ。でも、整理するための時間が無い。分類項目が多すぎて、収集がつかない。今要らなくても、過去1年はおろか、4~5年は参照しなかったけれども、そこにあるのは、いると思ったからであり、そのいると思った気持ちをリセットしないで、今まで保ってきたからである。

一年間参照しなかったから捨てられるのは、ほとんど関心の対象が広がらないと確信できていて、その中でそれが既に陳腐化しているか、向こう1年ぐらい経つとほとんど陳腐化すると容易に予測できるもの、である。

散らかって、ばらばらに存在していたメモを、雑記帳というタイトルのノートに、ただ貼り付けるだけでも、整理だ。領収証を、厚手の卓上ダイアリーのその週のページに分厚く重ねては貼るだけでも、大きな進歩だ。