オバマ大統領の演説の内容について、TVのニュースで紹介していた時はそんなことを言ったの、ぐらいの軽い感じしかもてませんでしたが、「ベネズエラのチャべス大統領がオバマ大統領の演説を評価」という新聞の記事に誘われて、そのうちに原文を読んでみようとは思っていました。
演説の動画は、"核を使った国として道義的責任がある"というところが、よく確認できず、軽く流された言葉のような気がしましたが、文字で確かめた後もう一度聴いてみると、その意味も実感として把握でき、さらに3回目になると、うーんとうなるほど、感心してしまいました。
As a nuclear power, as the only nuclear power to have used a nuclear weapon, the United States has a moral responsibility to act. We cannot succeed in this endeavor alone, but we can lead it, we can start it.
翻訳された日本語を読まないで、英文だけで読んで分かったような気になっていても、日本語で確認すると、こんなにも理解が違うとは。
さらに分かったことは、この演説を理解するうえでの、関心や前提知識のGAPでありました。
この演説をプラハで行うことの意味を理解できなかったのは、ベトナム戦争でのチェコ製の武器が使われていたのでアメリカが干渉しなかった、ということを知らなかっただけではなく、かつて、プラハの春から夏にかけて起こった事柄を自分の言葉で反芻して見たことが一度もないからということにほかならず、それは自分の歴史あるいは政治に対する態度を物語っています。
この演説に対し、次のように問いかけることも、その意味を自分の言葉で問うているという意味で、私にはできない問いであるとまた感心。
オバマの演説が本物かどうかは、彼が広島・長崎・第5福竜丸にくるかどうかですね。そして何を言うか。米国社会はそれを是とするか。原爆に限らず、無差別空爆をどう総括するのか。 ニセ宗教の定義が、又ひとつ増えそうです。絶対平和(武力の均衡や軍事的圧力によらない)を善しとしない宗教はニセ者である。
そして、次の答えに、また、ひとうなり(感心)。
オバマのシナリオでは外交・軍事に占める核兵器のウェートを引き下げる、(削 減、実験中止)ロシアその他核保有国と協調を前提としていますから通常兵器は 除外、一方的措置はなし。 他国の脅威が存在する限りは同盟国と自国の安全保 障は譲れないとも言明しています。 世界外交劇場での夏(春?)の夜の夢かしらん・・・。米国政治の振り子現象の揺 らぎに過ぎないのか・・・。
前に遅読について触れましたが、私のこの演説内容に関する読み方は、自分へのインプットの仕方は、あるいは、自分の言葉で語れるレベルは、要約にも満たず、ようやくタイトルをいえるぐらいのレベルで、遅読ではあるのに速読の理解度でした。
そして、"授業(ものごと)を理解するためには、質問項目を沢山用意できているほど、理解の幅と深さが異なってくる"、とかつて息子に言ったことはあるものの、そのことをやっていない自分を棚に上げていたことを、再確認したのであります。
ま、readinessが異なる分野に対しては、拝聴するだけでも、楽しいのですが...
2009/04/16
2009/03/13
遅読法
速読法ならよくきくが、遅読法はあまり耳にしない方法だろう。
遅読法
紹介されている2つの方法---自分で朗読したものを録音して聴く、外国語に翻訳する---は、自分の発音の矯正や、内容の理解・紹介のために利用したことはあっても、著者と対話して思考を読み解くための方法として、あるいは、著者を深く読むための読書法のひとつとして、使ってみたことはなかった。
だが、これはいけそうだ...
作成済みの、応募予定の就職先への志望動機や自己PR文があった。
新聞の記事では、遅さの技法は、第三者である著者がいて、その作品を通して、著者との対話を行うための手法として紹介されているが、この技法は、上記のように、自分との対話にも応用できる。
自分の考えを声に出し、文章にすることは、普段、誰もが行っていることである。
それが、日記やブログ、あるいは、作品・著作という場合があるかもしれないが、自分が作ったもの、過去のもの、として残っている場合、それを通して、自分との対話が可能になるのだ。既に作成されたものがある場合には、これは、過去の自分と現在の自分との対話である。
遅さの技法は、現在の自分との対話においても、利用できる。自分の心を朗読し、それを聴き、自分の心を外国語に翻訳しそれを読む。言葉にできないものが言葉になり、難しく考えていたことを簡単な単語に置き換えることによって明快になる。
ここまで書いてみて、ようやく、なんだ、これは考えることの基本であって、誰もが、いつも、行っていることではないか、ということに、遅まきながら気がついた。
遅読法
紹介されている2つの方法---自分で朗読したものを録音して聴く、外国語に翻訳する---は、自分の発音の矯正や、内容の理解・紹介のために利用したことはあっても、著者と対話して思考を読み解くための方法として、あるいは、著者を深く読むための読書法のひとつとして、使ってみたことはなかった。
だが、これはいけそうだ...
作成済みの、応募予定の就職先への志望動機や自己PR文があった。
そこに書いてあった文章は、断片の寄せ集めで、非論理的な、自分にも理解できない、ましてやそれを読む人にはもっとわからないことの羅列であった。
「あなたはそこにそのように書いているけれども、本当にそのように考え、それを望んでいるのですか?」 と、自分に問うまでもなかった。
今日の締め切りを明日に延ばし、自分が納得できるかたちのものにまとめ直した結果、嘘の心や飾りは消え、自分の中の真実が、より具体的に表現されるように変化した。
このことを通して、応募時の競争や選考結果を意識する前に、自分と対話し、自分が真に求めていることを意識することが大事であることが分かった。
こうして、応募文書を練り直すという本来の目的に加えて、自分の内面が自分と平衡したかたちで整理されるという、思いもよらなかったメリットが得られたのである。
新聞の記事では、遅さの技法は、第三者である著者がいて、その作品を通して、著者との対話を行うための手法として紹介されているが、この技法は、上記のように、自分との対話にも応用できる。
自分の考えを声に出し、文章にすることは、普段、誰もが行っていることである。
それが、日記やブログ、あるいは、作品・著作という場合があるかもしれないが、自分が作ったもの、過去のもの、として残っている場合、それを通して、自分との対話が可能になるのだ。既に作成されたものがある場合には、これは、過去の自分と現在の自分との対話である。
遅さの技法は、現在の自分との対話においても、利用できる。自分の心を朗読し、それを聴き、自分の心を外国語に翻訳しそれを読む。言葉にできないものが言葉になり、難しく考えていたことを簡単な単語に置き換えることによって明快になる。
ここまで書いてみて、ようやく、なんだ、これは考えることの基本であって、誰もが、いつも、行っていることではないか、ということに、遅まきながら気がついた。
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