2011/04/21

手を合わせる

>アミダと向き合う時、あるいは他の仏さまでもいいが、さて皆さん何を念じますか。
 
手を合わせて念ずると言えば、食事の前の「いただきます」ですね。でもそれは、阿弥陀さまに向かってではないようです。
小学校の食堂の前の壁の張り紙に次のようなことが書いてあって、感心したことを思い出します。
「いただきます」と言って感謝する対象は、食事をテーブルに運んでくれた給食係のお友達、食事作ってくれた方々、食材を学校まで運んでくれた人、野菜や牛乳を作ってくれる農家の人たち、そして自分の命を食べ物としてささげてくれた生き物たち
お寺で手を合わせた記憶となると4年ほど前の中学同窓会の前の物故者合同弔い会、「安らかに...」と念じたかも知れません。
実家の仏壇の前で手を合わせたのは1年半ほど前の報恩講。お寺からのはがきが届いていたところへ、檀家の世話役からの電話が入り、お経をあげてもらうことにしました。私も母も、滅多に仏壇を開かないので、仏壇の扉はスムーズにあけるの難しく、開ける度に少しずついたみます。
 
このようにお寺や仏壇の前は少ないのですが、神社の前で手を合わせることは、時々あります。
4月6日、東京王子の稲荷神社で手を合せました。会社の退職仲間(元同僚・先輩)で花見に出かけた際のことです。
鶯谷の子規庵を訪れた後、王子まで足を延ばし、飛鳥山公園で桜を愛で、時間つぶしの渋沢栄一史料館でこの人を再(?)認識し、王子神社を経て王子稲荷神社へ。
敷地も広くて立派な王子神社では誰も手を合せなかったのが、狭い崖っぷちにある稲荷神社では、その存在感に惹かれてか、5人中3人がお参りしました。
帰り道、近くの饅頭屋さんによると、王子稲荷神社はパワースポットとして有名ということで、なるほどという感じがしました。
 
パワーが強いところというものは、これまでにそこを訪れた人のいろいろなエネルギーが蓄積されていて、その総和が少しずつ放出され、訪れる人に迫ってくるのではないでしょうか。
 
高校野球で一生懸命にプレーする球児からパワーをもらう、多く人の視線にさらされて美人になる、屈託のない小学生の笑顔から元気をもらう、勇気をもらう、力をもらう....こうしたプラスのパワーはもとより、
自分にないもの、欠けているもの、不足しているもの、持っているはずだが失念しているもの、そういうものを与えてくれる、あるいは、それでも大丈夫だよと励ましてくれる存在に対して、それを祈るパワーも、大きな力だと思います。
 
ところで私は、何を念じたのでしょうか? 忘れました。 家族の無病息災でしたかね...お賽銭が5円だったことは覚えています。

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