>アミダと向き合う時、あるいは他の仏さまでもいいが、 さて皆さん何を念じますか。
手を合わせて念ずると言えば、食事の前の「いただきます」 ですね。でもそれは、阿弥陀さまに向かってではないようです。
小学校の食堂の前の壁の張り紙に次のようなことが書いてあって、 感心したことを思い出します。
「いただきます」と言って感謝する対象は、食事をテーブルに運んでくれた給食係のお友達、 食事作ってくれた方々、食材を学校まで運んでくれた人、 野菜や牛乳を作ってくれる農家の人たち、 そして自分の命を食べ物としてささげてくれた生き物たち
お寺で手を合わせた記憶となると4年ほど前の中学同窓会の前の物 故者合同弔い会、「安らかに...」と念じたかも知れません。
実家の仏壇の前で手を合わせたのは1年半ほど前の報恩講。 お寺からのはがきが届いていたところへ、 檀家の世話役からの電話が入り、 お経をあげてもらうことにしました。私も母も、 滅多に仏壇を開かないので、 仏壇の扉はスムーズにあけるの難しく、 開ける度に少しずついたみます。
このようにお寺や仏壇の前は少ないのですが、 神社の前で手を合わせることは、時々あります。
4月6日、東京王子の稲荷神社で手を合せました。 会社の退職仲間(元同僚・先輩)で花見に出かけた際のことです。
鶯谷の子規庵を訪れた後、王子まで足を延ばし、 飛鳥山公園で桜を愛で、 時間つぶしの渋沢栄一史料館でこの人を再(?)認識し、 王子神社を経て王子稲荷神社へ。
敷地も広くて立派な王子神社では誰も手を合せなかったのが、 狭い崖っぷちにある稲荷神社では、その存在感に惹かれてか、 5人中3人がお参りしました。
帰り道、近くの饅頭屋さんによると、 王子稲荷神社はパワースポットとして有名ということで、 なるほどという感じがしました。
パワーが強いところというものは、 これまでにそこを訪れた人のいろいろなエネルギーが蓄積されてい て、その総和が少しずつ放出され、 訪れる人に迫ってくるのではないでしょうか。
高校野球で一生懸命にプレーする球児からパワーをもらう、 多く人の視線にさらされて美人になる、 屈託のない小学生の笑顔から元気をもらう、勇気をもらう、 力をもらう....こうしたプラスのパワーはもとより、
自分にないもの、欠けているもの、不足しているもの、 持っているはずだが失念しているもの、 そういうものを与えてくれる、あるいは、 それでも大丈夫だよと励ましてくれる存在に対して、 それを祈るパワーも、大きな力だと思います。
ところで私は、何を念じたのでしょうか? 忘れました。 家族の無病息災でしたかね... お賽銭が5円だったことは覚えています。
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